小林おもひ人


プロフィール/Plofile

1978年4月20日生まれ。小林市野尻町紙屋生まれ、紙屋在住。小林高校卒業後、スポーツトレーナーの専門学校入学のため、18歳で大阪へ。バンドと出会い、活動を開始し、上京。以来34歳まで、東京でバンド活動を続ける。帰郷後、自家生産米での米糀製造加工販売店「rice shop糀や(杉元糀店)」=野尻町東麓=を運営。父・母・弟3人の6人家族。趣味は、音楽活動(ギター、歌)、プロレス観戦、バイクに乗ること。

小さい頃は“きかんたろ”。
高校卒業後、大阪、東京でバンドマンに。

 小林市野尻町で弟3人の長女として生まれました。
「お姉ちゃんなんだから」「女の子なんだから」と、散々言われて育ったのですが、毎日どこかしらケガをして帰ってくる、いわゆる”きかんたろ”だったと思います(笑)。
小林高校を卒業後、専門学校入学の為に大阪に行きましたが、そこでバンド活動にハマり、その活動を広げる為に、5年間過ごした大阪を後にして上京しました。
自然豊かな小林で育った18歳までの私には、想像もつかなかった大都会に16年間もいたことになります。ただただやりたかったバンドの為だけに、16年間の全てを使いました。

そんな東京での生活が10年目に差し掛かろうとしていた時に経験したのが、東日本大震災。大都会の大パニック、何車線もある道路は車でふさがり、人であふれかえり、余震で平衡感覚を失い、地震警報のアラームに怯える日々。でも、東京とは比べ物にならない凄惨な被災地を知れば知るほど、何もできない自分が苦しくて仕方なくなりました。そして「これだけのことが起きたんだ。自分くらい変わらなかったら嘘になる」。そう強く思うようになりました。

「自分にしかできない、自分の仕事を作りたい・・・」。
好きな音楽はどこにいても、何をしててもできるし!

それが、3年前に母と、自家生産米を利用して米糀をつくる計画を立てたきっかけです。東京にいたときに地元小林で作られた自分ちのお米が、どれだけおいしいかったか思い知らされた経験もあって、「そのおいしいお米で米糀を作ろう!絶対おいしい米糀になる!!!」となったわけです。しかし当初は、一年間だけ地元で修行して、その後また東京に行って事業を展開する予定でした。

美しい霧島連山をきっかけに、故郷からの事業展開を決意。

 今思えば、嬉しい誤算。あらためて見た故郷の景色に、私は完全に心を奪われてしまったんです。なんでこんなにきれいなんだ、どうしてこんなに胸が締め付けられる思いがするのだろうと、1日として同じ表情のない景色に夢中になり、毎日のように裏庭に出て眺めては、感動を抑えきれずにいました。
その感動のあまりに「ここで仕事がしたい!」と決意します。都会の中で発信するのではなく、この景色や環境を元に「ここ」から発信しなければ意味がない―。都会にいたからこそ、東京にいて震災を知ったからこそ、そう思えた気がします。

以来故郷で、糀を作り販売しています。そしてこれからもずっと、この小林で糀を作り続けていきたいと思っています。その中で「まちの活性化とともに事業を発展させたい」という思いが、日に日に強くなってきました。
水も食べ物もおいしいこの土地で、自然も景色も素晴らしいこの土地で、本当に良い商品を作っていきたい。そしてその素材を生み出す力を持ったこのまちを、もっともっと知ってもらいたい。

地元にいるからこそできることが、きっとある。
仲間を増やし、新たなことに挑戦し続けたい。

 そこで、「デザインを考える会」を作ろうと考えました。素晴らしい素材にデザイン力が加わった時、県内外問わずもっともっと小林をアピールできるのではないだろうか―。一緒に考える仲間や事業者と、一緒に挑戦することができたら―。そしてそんな仲間をこの町にもっと増やすことが出来たなら―。更なる町の発展へとつながる可能性もあるのではないだろうか。発信する力を身に付ける為のデザイン力を追求し、よい素材に更に磨きをかけたい。地元にいるからこそ作れるものがきっとあると信じ、小さなことから、少しずつ始めていきたいと思っています。
そして現在も、都会で散々やってきた音楽を飽き足らずに続けています。40歳になっても、50歳になっても、ずっと続けていきたいです。音楽はどこにいてもできる、と思ったあの時。そう思えたことが、変わりたいと思った私の後押しをしてくれました。
これはこっそりと・・・ですが、小林に音楽ももっと広めたいと思っています。

霧島連山の夕日の美しさに感動し、故郷の魅力とこれからの可能性を知ることができました。この土地に生まれ育ち、故郷で新たな挑戦ができる喜びも知りました。この喜びや感動を伝え続けていくことも忘れずに、日々突き進んでいこうと思います。